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  川合住宅設備梶@感動エッセイ
 
 
「 蝶 」

一人の男が蝶のさなぎを見つけました。

ある日さなぎに小さな割れ目が現れました。
男は座り込んで、蝶が懸命にその小さな割れ目から外へ出ようとする様子を
何時間も見つめていました。
すると蝶の動きがぱたっと止まってしまいました。
それはまるで、蝶が「ここまでがんばったけれど、もうこれ以上は無理だよ」
と言っている様でした。

そこで男は蝶を助けるために、さなぎの割れ目をはさみで切ってやりました。
すると蝶は簡単にさなぎから出ることができました。
しかしその蝶の体は腫れ上がったようになっていて、羽は小さくてしわしわ。
男は、そのうちに羽が大きく広がって体もしぼんで行き、飛べるようになる
のだろうと思って蝶を見続けていました。

しかし、それは起こりませんでした。
蝶ははれぼったい体としわしわの羽のまま這い回り、死んでしまいました。
飛び立つことができなかったのです。

男は知りませんでした。自分が親切心と焦りからしたことの結末を。
さなぎがなかなか破れないようにできていることや、蝶のその小さな割れ目から
外に出る必死の戦いは、もがきながら体の水分を羽の方に押し出し、さなぎから
抜け出た時には飛ぶ準備が既にできているようにとの、神様の創造の業だった
のだということを。

時に困難は、私たちの人生に必要なものです。
もし神様が私たちを何の困難にもあわせないとしたら、私たちはしかるべき強さ
を得ることができないでしょう。
決して飛び立つことはできないのかもしれません。

作者不明 (訳:佐川 睦)

   
 
足袋の季節
 足袋をはく冬が来ると、必ず私の心の中に生き生きと映し出されてくるおばあさんがある。
 小学校を出るとすぐ小樽の叔母を頼って父母のひざを離れたのだが、当時私の父は定職につけず、その仕事もたまにしかなく、家は非常に貧しかった。
  初めて会った叔母だが「なんで来た」と言った冷たい顔をしながらも、それでも私を小樽郵便局に世話をしてくれた。
 月給が14円で、食費として叔母が13円50銭をとり、残り50銭の中で頭を刈り、風呂銭に充てなければならないので、それこそ冬が来てもゴム長どころか、足袋を買う余裕もなかった。雪の中を素足でぴょんぴょん跳ねるようにして局へ通ったもので、夜勤を終えて帰る時の足の冷たさには何度泣かされたか分からない。なんとかして足袋を・・・・・、いつもそのことで一杯だった。
 郵便局の構内に毎週月水金だけ、大福もちを売りに来るおばあさんがいた。
 そのおばあさんは、自転車置き場の横に箱を並べ、いつも寒そうに首巻きで肩を包み、ふきっさらしのからすのように小さく縮こまっていた。
  ある日、上役の言いつけで10銭玉を握ってもちを買いに行った。おばあさんは大福もちを五つ袋に入れて私に渡しながら「50銭玉だったね?」と聞いた。自分が渡したのは10銭玉だったが、そのとき40銭あったら足袋が買えるという考えが、稲妻のように頭にひらめいて、思わず「うん。」とうなずいてしまった。 おばあさんはちらっと私を見た。そして「ふんばりなさいよ。」とぼそっとひとこと言って私の手に10銭玉を四つ握らせてくれた。
  私は逃げるようにその場を去ったのだが、あのおばあさんは私がごまかしたのを知っているのだと思うと居ても立っても居られなかった。正直に言ってその金を返そうと心の中では思うのだが「40銭あったら足袋が買える。」という心に負けてとうとうそれが果たせなかった。
  それからはおばあさんの前に立つことが出来ず、もちを買いにやらせられる時は、必ず同僚に頼んで行ってもらった。「あの貧しいおばあさんから、金をかすめとった!」という自責の念と、「ふんばりなさいよ。」と言ってくれたのは私にこれで足袋を買って頑張りなさいよと励ましてくれたのだと甘い考えが日夜小さな私の胸を苦しめた。
  逓信講習所の試験に合格してそこを終えると札幌局に配属され、初めて月給をもらうと、汽車に飛び乗るようにして、果物のかごを手にそのおばあさんの小樽局に訪ねた。
  すでにおばあさんは死んでいました。局の近くを流れる色内川の橋にもたれて、ただむしょうに自分に腹が立ってしょうがなかった。持っていた果物のかごを川に落としてやった。浮き沈みつ流れて行くかごを見て私は泣けて泣けてどうしょうもなかった。
 死というものがこんなに絶対なものかという事が、あの時位強く感じられたことはない。
  以後、私は二十何種類の職を転々としたが、なんとか今日まで、くじけずにやり通せたのは、あのおばあさんのちらっと私を見たあの時の目、「ふんばりなさいよ。」と言ってくれたあの言葉によって支えられてきたからだと思う。
  今となってはただ後悔の念を深くするばかりだ。いや、あのおばあさんが私にくれた心を、今度は私が誰かに差し上げなければと思っている。      

中江  良夫
   
 


 洗濯機が壊れてしまい電気屋さんに修理を頼んで、洗濯物を風呂場で手洗いすることにしました。
 すぐに腕や腰が痛くなってコインランドリーに持っていけばよかったと後悔しました。私と夫と二人の子供たちの汚れ物。少しだと思ったけど、洗ってみると結構な量でした。
 洗濯機のありがたさを身に沁みて感じながら、ふうふう言って汗を流して洗っていました。
 反抗期に入った娘のシャツを洗いながら、まったくもうこんな思いまでしてきれいに洗っているのに親のありがたみをちっとも分かっていないんだからあの子は、とむしゃくしゃしてハッとしました。母とのことを思い出してしまったのです。
 私が子供だった頃、家に洗濯機はありませんでした。母が毎日タライで洗っていました。冷たい水で手を真っ赤にさせて、根気よく丁寧に洗っていました。何かというと母に口答えしていた私でしたが、母が洗濯している姿を見るのが大好きでした。
というのも、私の衣服を洗う時、母は決まって笑みを浮かべたからです。他の誰よりも特別きれいに洗ってくれているように思えて、それはうれしいものでした。
  「裕子の服を洗うとね、きれいにしてくれてありがとう、って裕子が笑っているような気がするの。だからうれしくなって笑うのよ。」と母は一度だけその訳を話してくれました。
 姉弟の中で私だけがひねくれ者で、母にはちっとも素直ではありませんでした。そんな私なのに、母は深い愛情をそそいでくれていたのです。
 母がきれいに洗濯してくれていたのは、私の心だったような気がします。
 目の前の娘の衣服を洗い出しました。ありがとうと笑う娘の笑顔が浮かぶまで、いつまでも洗ってやろう。
 すぐに愛らしい笑顔の娘が現れました。娘の笑顔と、子供の私の笑顔が重なっていったのです。
 「お母さん、ありがとう。」
   
 
赤ちゃんを抱っこしよう

戦後もしばらくの間、子どもの子守姿はどこでも見られた。上の子が妹や弟の面倒を見る。兄や姉の赤ちゃんの世話をすることも珍しくない。子どもは赤ちゃんに触れて育つのが普通だった。
 子どもの周りから赤ちゃんが居なくなって久しい。兄弟が減り、核家族化も進んだためだ。
 女性にとっても男性にとっても、自分の子が初めて抱っこする赤ちゃんというケースが増えている。赤ちゃんを欲しいと思うどころか、赤ちゃんを持つことの不安ばかりが先立つのも無理はない。
 子どもの時から赤ちゃんと触れ合う機会を作ろう。自分で抱っこすれば、赤ちゃんの可愛さや命の不思議さを体で知る事ができる。そんな試みが各地で行われている。
 岩手県水沢市の小学校では、10人の赤ちゃんが母親と一緒に放課後、やって来て100人の子ども達が交代で抱っこしたり、話しかけたり、頬ずりしたりする子もいた。
 また、中高生と赤ちゃんの触れ合い事業として生徒が子どもセンターに集まり、赤ちゃんを抱いたり、おしめを換えたりする。体験をした生徒たちが生命の尊さや性の悩みを語り合う集会には250人が参加した。
  「赤ちゃん1人いるだけで、部屋の中のみんなが笑顔になる。赤ちゃんはすごい力を持っているのだ」と生徒の驚きの声である。
 大切なことは、赤ちゃんの成長を実感し、触れ合いを続けていくことが欠かせない。
  「生徒は生命に触れながら、自分が役に立っていることを実感します。そして、自分を好きになっていくのです。自分を肯定できれば誰にも優しくなれる。」と教諭は語る。
 中高生と赤ちゃんの触れ合い事業は厚生働労省が16年度から少子化対策の一つとして補助を始めた。
 次の世代へ命をつなぐことの大切さを子どもたちに実感させたい。
   
 
ごめんね、おばあちゃん

 最近、祖母はめっきり年老いた感じがする。僕の家は両親とも働いていると言う事もあり、祖母が家の留守を守ってきた。学校から帰ると、おやつや夕ごはんの準備をしてくれていた。
 僕が小学校の頃には、母に代わり授業参観や体育祭にはいつも来て、「しっかりやれや!」などと大声をはりあげるので恥ずかしい思いをしたこともある。
 しかし、一年前から耳は遠くなり、体も思うように動かなくなった為、家事は母が一切することになったが、それでも祖母は気をきかせて、米をとげば分量を間違え、風呂に水を入れれば止め忘れ、食事ではごはんを落とすなど小さい子供のようで「家の心配の種」と母がこぼすようになった。 
 「おばあちゃん、何もしないでいいから、じっとしていて!」と母が大声をはりあげることが多くなってきた。
 先日、友達が遊びに来た時、祖母が部屋にジュースを運んできた。友達があいさつをしたのに聞こえなかったのかそっぽを向いたままだったので「早くで出ていって!」と大声で言った。
 その直後「バリッ」と音がして友達のプラモデルを踏みつけて壊してしまった。友達には「ごめん。ばあちゃん年をとってるから・・・僕が弁償するから。」と再三わびて帰ってもらった。
 夕食の時、「おばあちゃん、もう友達が来ても僕の部屋には来ないでね。」と大声で言った。「何か悪いことしたかや?」と聞きただしたが、「何でもいいの。絶対入室禁止!」と怒鳴った。
 祖母はせつなげな顔をしたが、いそいそとごはんを盛リ始めた。その時である。妹が「おばあちゃん、私のごはんもらないで!自分でもるから!」と言って、いきなり祖母から茶わんを取り上げた。その瞬間、「どういうことだ!」と父の鋭い声がとんだ。妹は「だって、おばあちゃん、きたないんだもん。」とふくれて反発した。「どこが!」父の声がいっそう激しさがこもった。妹は父の形相に声を失い、泣きそうになって自分の部屋に行ってしまった。
「聡もそうだ。おばあちゃんにそんな言い方はないだろう。」とほこさきが自分に向いてきた。「だって。」と言おうとしたが黙っていた。
 ようやく食事も終わり祖母の引きつった顔に涙が一筋流れた。自分の言葉が引き金になったと思うと祖母の後ろ姿が気になってしようがなかった。
 翌日、学校から帰ると、祖母が骨折して入院したことを知らされた。そのまた翌日、部活もなく早く帰宅したぼくはいつものように「ただいま。」と言って戸に手をかけた。鍵がかかっていて祖母が入院したことを思い出した。
 シーンとした家の中は別世界のようにさえ思えた。静けさがだんだんさびしさに変わり落ち着かない。脳裡に、小学校のころ祖母に手を引かれ行った花見の情景や父に叱れた僕をかばって抱いてくれた時などが浮かんでは消えていった。祖母がこのまま戻ってこない気がした。
 いつのまにか、僕は自分の貯金箱からお金を出し、自転車に乗って病院へ向かっていた。途中の魚屋でおばあちゃんの好物のたらこを買い、病院に入っていった。
 「川合さん、お孫さんですよ。」と看護婦さんが寝ていた祖母を起こした。目を覚ました祖母の姿は髪が乱れ、シミとしわが浮いて家での祖母とは別人のようであった。「おばあちゃん、これ。」とたらこを差し出したがもう後の言葉が続かなかった。「聡、来てくれたかや・・・」と蚊の鳴くような声を出し、僕の手を胸元に引き寄せた。ザラザラした手の感触とぬくもりが伝わってきた。祖母は声をつまらせ、しわとしわの間を涙が流れた。「もう、おまえ達には何もしてやれなくなった・・・」とつぶやき、枕もとからサイフを出し、首を振る僕の手に千円札を握らせた。「学校が早く終わったら寄るからね。」とだけ言って病室を出た。
 病院の玄関を出る時、人がいないことを確認して「おばあちゃん、ごめんね。」と小声でつぶやいた。自転車をこぐ足に自然に力が入った。心の中で霧が晴れていくようでだった。
 その夜、勉強をしている僕の部屋に珍しく父が入ってきた。「ばあちゃんとこ、行ってやったんだってなあ」と言って、どう答えてよいか戸惑っている僕の頭をやさしくポンとたたいて出て行った。

濁川 明男

   
 
紙風船

落ちて来たら
今度はもっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願いごとのように
      黒田 三郎


 よく知られている詩ですが、私はこの詩の「落ちて来たら」に惹かれます。
紙風船にもそれ自身の重さがあり、打ち上げられて、ある高さまで達すると落ちて来ることを知らされるからです。 同じように、私たちの打ち上げる願いごともまた、それ自身の重さのために落ちて来ます。 
   
 
小さなこと

十年ばかり前にM新聞の随筆欄「茶の間」に私は次のようなものを掲げた。
宴会の席で聞いた友人の話である。
 自分は学校を出て、年来あくせくと働いて家族を養うのでいっぱいであった。この世に生まれてきて、自分は何も他人の為に出来なかったことを、ある時考えてから、そのうちふと、どこへいっても便所のぞうりを、あとから来た者が履き良いように向きを変えて揃えて脱いで出る事にした。これは他人に知れずに他人の為になることなので、それ以来どんなに酔っている時も忘れないで、そうすることにして十年余りになる。自分が死ぬまで、これだけは続けるつもりなのだ。そして死んで神様が地獄の閻魔の前に出て、お前はあの世で何をしてきたか?と尋問したら、私は誠につまらぬ人間で、何も他人の為に役だたずに一生を過ごして参りました。が、ただ、どこへいっても便所のぞうりだけをきれいに揃えて出て参りましたというつもりなのだと話して笑った。
 この記事が新聞に出た翌日、駅のプラットホームで電車を待っていると、古くから知っている音楽評論家の松本太郎さんが私のそばに歩いて来て、「昨日の『茶の間』を読みました。あれは誰です。」こう言ってから松本さんは、少しはにかんだような笑い顔を見せて付け加えた。
「実は、ぼくも、あの通りするようにしているものですから。」
と言った。私は返事に困って赤くなった。「あれは、実はぼくなんです。」
 松本さんは、うれしそうに黙って笑って、離れていった。
 私もいい気持ちであった。人に話せないことなので、友達の話として書いたので、そのため何となくおおげさな文章となってきまり悪かったが、便所のぞうりを揃えて脱いでくることは、思い立ってから私が今日まで密かに続けていることである。誰が自分の後から 入るか知らないし、ぞうりが揃えてあるのを気がつかずに履くことに違いなかろうが、場所がら汚く脱ぎ捨てて裏返しになったのもあるようなのを、起こして履かねばならぬのより、素直に気持ちよく履いてくれるのに違いない。これだけは自分が良いことをしていると思い、気持ちいいのである。松本さんが、黙ってそれを実行している人とは私が気がつくはずがなかった。
 五、六年経ってから、私は松本さんのことを別の新聞に書いて出した。
 すると、知らない読者から投書が来て、あの文章を朝の新聞で読んで、今日一日中気分が明るく、嬉しかったので我慢が出来ずにこのはがきを書く。私もこれから、あなたのなさるようにする。人に見せないで出来ることなのでありがたい、忘れずに出来そうに思われる、と言ってきた。
 このごく小さい自分のしつけが他のことでも私を支配しているように思う。ひとつの小さいことでも、必ずやることと決めて行っていると、他のことでも不親切にできなくなるものらしい。小さい親切というのも、よく知らないが、その意味なのであろう。考えているより、何か始めることが大切のようである。

大仏 次郎
   
 
父さんの宝物

 三年前に親父が死んだんだけど、殆ど遺産を整理し終えた後に親父が大事にしていた金庫があったんだよ。うちは三人兄弟なんだけれど、おふくろも死んじゃってて誰もその金庫の中身を知らなくてさ。とりあえず兄弟家族みんなを呼んで、その金庫を開けることにしたんだけれど。これがまた頑丈でなかなか開かないんだよ。仕方がないから鍵屋さんを呼んで開けてもらうことにしたんだけれど、なかなか開かなくてさ。
 
 なんとなく俺たちは子供の頃の話を始めたんだよ。親父は昔からすごい厳格で子供の前で笑ったことも一度もなくて旅行なんてほんとに行かなかった。子育てもお袋に任せっきりで、餓鬼の頃はマジで親父に殺意を覚えたよ。

 一番下の弟がそういうわけだから、しこたま溜め込んでるじゃねえか?みたいなことを言い出して、その後に真中の弟も親父が夜中に金庫の前で、ニヤニヤしながらガサガサやってんのを見たとかい言ったから、俺もかなり金庫の中身に期待を抱いちゃったんだ。
 
 その時に鍵屋が丁度「カギ、開きましたよ。」と言ったからワクワクしながら金庫のドアを開けたんだ。そうしたら、まず中から出てきたのは。古びた100点満点のテストなんだ。それを見た一番下の弟が「これ、俺のだ!」と言って俺から取り上げたんだよ。次に出てきたのは、なんかの表彰状、すると次は次男が「俺のだ」と言い出して、その後にネクタイが出て来たんだ。見覚えがあるなあと思って気がついて叫んじゃった「あ、これ俺が初めての給料で親父に買ってやったネクタイだ。」 その後に次々と昔の品物が出て来て、最後に黒い小箱が出てきたんだよ。その中には子供の頃に家の前で家族全員で撮った古い写真が一枚出て来たんだよ。
 
 それを見た俺の嫁さんが泣き出しちゃってさ、その後にみんなもなんだか泣き出しちゃって、俺も最初は、なんでこんな物が金庫の中にあるのかが分からなくて、なんだよ金目の物がねーじゃんとか思ってちょっと鬱になってたんだけれど、少したって中に入って居た物の意味が理解出来た時、その写真を持ちながら肩を震わして泣いちゃったんだ。人前で初めて本気で号泣しちまったよ。そこで、鍵屋が気まずそうに「あの、私そろそろ戻ります」とか言ったんでみんなが、ハッとして涙をにじませながら「ありがとうございました。」・・・・・・

   
 


 深井八輔はひょうきんな性格で、人を笑わせるのが上手で以前から役者になりたいと考えていた。その頃、川上一座が下まわり役を募集し応募したがみごと落第だった。ところが懲りずに人相を変えて、大勢を募集したので他の人に紛れうまく採用となった。
 彼は35歳をこえても舞台では絶えず道化を演じているに過ぎなかった。主役の引き立て役の脇役に用いられるばかりで少しもうだつのあがらない自分自身を知っていた。知っていながら仕方がなかった。相変わらず観客を笑わせては己の境涯を笑っていた。
 彼には八歳になる子供がおり、正式な役者になる未来を持っていた。息子を立派な役者にしたいと願い、自分の境遇を考えると息子にひけ目を感じずにはいられなかった。
 今回、八輔に振られた役は「虎」の一役だった。本当の獣の虎に扮する一役だけだった。今までにも、猫、犬に扮した事はあった。今更、虎の役を振られたとて、それが何の不思議であろう。自分が虎に扮することの不思議でないことを悲しく感じた。馬鹿にされているような気がして腹立たしくさえ思った。獣でも鳥でもうまく演じさえすれば立派な役者なのだ。虎をやる役者は日本中に自分しかいない。皆を「わっ」と言わせてやろう。しかし八輔は実物の虎を見たことがなかった。いざ自分が演じるとなるとまるで特徴が分からなかった。そんな折、息子から「動物園へ行って見たいんだよ。一度も行ったことがないんだもの。」彼はこの子供の言葉を天があたえてくれた一種の啓示として受け止めた。
 八輔親子は上野動物園へ行く事となった。八輔は虎のおりの前に立ち、虎も動かなかったが彼も動かなかった。突然、虎は顔を妙に歪めた。と思うとそのとたんに鮮やかな銀色の髪を植えた口を開いて大きな獣のあくびをした。開いた口の中は鮮紅色で牡丹というよりは、バラの開いたようだった。がそれも一分とたたず虎はまた元のような静けさに返った。
 ふと我に返った八輔は、危うく忘れかけた自分の目的を甦らせたが虎はただ一度のあくびを見せただけであとは動かなかった。でも彼は十分満足をして「思い切って虎になってやるぞ」という気持ちになった。
 いよいよ芝居の初日が来た。幕が開き劇は進行した。虎になった八輔はものうげに寝そべっていた。長い眠りから今さめたように、大きなあくびを一つした。ちょっと身動きして「ううっ。」とうなり声は動物園の虎そのものであった。観客は静まり返り、かたずをのんで見守った。劇は最高潮に達した。いよいよ虎の活躍する時が来た。彼はまず、獣の伸びを一度した。それからおもむろに二,三度うなった。そのうなり声は獲物を狙う猛獣のそれであった。虎は役者の胸をめがけて猛然と踊りかかり、つないである鎖がピンと緊張する程に勢い込んで跳ね狂った。観客は湧き立った。「深井!深井!」と呼ぶ声が随所に起こった。彼はぬいぐるみを通してそれらの喝采を聞きながら殆ど我を忘れて跳躍した。もう不平も憂鬱も恥辱もなかった。夢中で演じている彼の心の中には言いようのない快感のみが存在した。彼はぬいぐるみのまま暗い舞台裏に引き上げてきた。すると不意に彼の片手にすがりつく者があった。息子の「亘」であった。深井は思わず「亘。」と言って息子を抱きしめた。涙がぬいぐるみの虎を伝わってポロポロと落ちた。
 舞台では、なおも観客の喝采が鳴り響いていた。

原作 久米 正雄
   
谷村新司の『昴』で失敗した男の物語

 「宴会部長」。いまや、死語に近いこの言葉が、自他ともに認めるSさん。中堅の証券会社に勤めて15年。「宴のあるところにSあり」と言っても冗談に聞こえないほど、評判のお祭り男だった。
 しかし、肝心の仕事の方はサッパリだった。ノルマが達成出来ない。昇進試験にも受からず、仕事上のミスも少なくなかった。営業という立場にありながら押しが弱い。相手に確実に利益があると確信出来ないと勧めることが出来ない。つまり、いい人なのだ。
 「ノルマが達成できなくても、その分、飲み会の時は頼むぞって感じだったんです。4人中3人は飲み会での私を評価してくれたのですが、ひとりの上司だけは仕事のできないやつはいらないという感じで・・・。なにせこういうご時世だから。」
 ある日のT課長の歓迎会で事件が起こった。T課長はカラオケが得意で歌ってさえいれば上機嫌という話をどこからか聞いていたので二次会はカラオケボックスへ直行となった。
 その頃、カラオケの司会は決まり事のように任されていたので、その日もマイクを使ってスタッフの持ち歌の紹介をし、自分ペースで盛り上がっていました。そこに谷村新司の『昴』のイントロが流れ、若い人がウケを狙って入れたと思い込み「こんなカッコ悪い、ださくて、オヤジくさい歌を歌うのは誰だ!今どきいるのかよ。」T課長はおもむろに立ち上がり『昴』を熱唱し始めました。場がシーンとしてしまい 課長は歌い終わると無言で帰ってしまいました。仕事では数え切れないほどのミスをしてきましたが宴会部長としては初めての失敗でした。
 それ以降飲み会もなく、営業成績は上がらない。社内でも課長の前では、話がし辛い雰囲気になってきて、夜、誘われる事も少なくなって会社に居る場所がなくなり、とうとう「自分から辞表を提出すれば配慮する。」と言われ今はハローワークに通う毎日になりました。
 宴会部長としての職務に励む前に、営業マンとしてのスキルをアップさせなかったことを悔やむ日々とのこと。
「バブル入社でしたから、自分の適性を考えずに会社に入ったことがそもそもの間違いでした。『昴』の歌を聞くと嫌なことを思い出します。口は災いの元とは、よく言ったものです。」
38歳のSさんの自他ともに認める現在の姿である。

   
  美 し い 母 の 顔
  
私の母の顔は、右の頬一面が大きくただれています。それはヤケドのアトです。どうしてヤケドをしたのか聞いた事もありましたが、母はいつも笑いながら、子供の頃ヤカンをひっくり返してこうなったのだと説明してくれていました。 私は母のヤケドのアトが大嫌いで、なるべくお友達に見られないように、いつも心を砕いていたのです。
などの集まりの時にも『学校に来ないでよ』と言い続けて来ました。一緒に出掛けた時でも、向こうから友達が来ると私はすーっと母から離れて、まるで他人のような素振りをとって来ました。
私の誕生日はいつも父と母と私でした。『たまにはお友達を呼んだら?』と母が言ったこともありましたが「そんなこと。恥ずかしくて呼べないわ」と私が怒ったので、翌年からは、母は何も言いませんでした。
 先月のことです。家庭科の宿題を置き忘れて来てしまいました。夕べ遅くまでかかって縫ったのに、朝寝坊してあわてて家を出てきたからです。一時間目の途中で気がつき、取りに帰ろうか迷っていました。先生のお話もよく耳に入らぬまま一時間目が終わり休み時間になりました。
 「M子さん、お母さんが廊下に来ているよ」と言われた時「宿題を届けてくれたんだわ」とほっとした気持ちと同時に「お母さんの顔がみんなに見られてしまう」という気持ちとがごちゃごちゃになって「学校へ来ちゃ駄目って、あんなに言っておいたでしょう」と怒鳴りました。母はニコニコしながら「わかっているけれど、せっかく夜遅くまで頑張ったんだもの、困っていると思って」と言いました。私は、風呂敷包みを乱暴に奪い取って「そんなおばけみたいな顔で、いつまでもいないでよ」とまた怒鳴り後ろも振り向かずに教室にかけこんでしまいました。気の重い、それはとても長い一日でした。
 その夜、父が「M子、お前に話しておきたいことがある」と言われ静かに話し始めました。
「お前が一歳の時の冬、近所で火事があり驚いて飛び起きた時は、火に包まれて逃げ場がない。とっさにお前を毛布ですっぽり包み、しっかり抱きしめたまま炎の中をくぐって、やっとのことで表に逃げ出すことが出来たんだよ。お母さんの顔をよく見てごらん。そのヤケドはその時のヤケドなんだよ。」 
 私は始めて聞くその話に息も出来ませんでした。「今まで本当のことを言わなかったというとね。お母さんが『私のヤケドがM子を助ける為にできたんだなんて、もし思うと心に負担が残るんじゃないかしら』ってずっといい通して来たから、つい、今日まで本当の話をしなかったんだよ。M子の顔が、こんなにきれいでいるのも、 お母さんが濡れた毛布でお前を包み、しっかりと抱きしめたまま必死で逃げてくれたからなんだよ。お父さんは、お母さんの顔のヤケドを見ると、心の中で『ありがとう。ありがとう。本当にありがとう』ってお礼を言っているんだよ。」 
 私はあとから、あとから流れてくる涙をどうすることも出来ませんでした。「お母さん有難う。今までのことごめんなさい」も胸がつまって言葉にはなりませんでした。
 母の顔にあるヤケド。今では私の誇りです。私への愛のしるしなのです。だから、よそのどんなきれいな顔のお母さんよりも、私は私の母の顔を美しいと思っているのです。

                       ―藤井 均「世界通信教育情報」より抜粋―

   
 
母さんの片栗湯

先日、家族そろってインフルエンザにかかり、一番重症だった私は、3日間寝込む羽目になりました。高熱から来る悪寒に震えながら私は15年前に亡くなった母の事を思っていました。
小さいころ、私が風邪で寝込むと母は決まって片栗湯を作ってくれました。
それは、片栗粉に湯、砂糖、牛乳を加えて溶いた母特製のミルク風味の片栗湯。どんなに食欲がないときでも、とろりとしてほんのり甘い片栗湯だけは口にすることができました。
あの頃の私にとって、片栗湯は何よりもご馳走だったのです。そういえば片栗湯食べたさに仮病を使ったこともありましたっけ・・・。

自分でも母の作り方を真似て作った事があります。でも何度こしらえてみても母がつくるそれとは同じ味にはなりませんでした。今思えば、母の片栗湯には我が子への愛情がいっぱい詰まっていたから・・・。
きっとその違いだったのでしょう。
熱にうなされながら、私は心の中でつぶやきました。
「あぁ、母さんの片栗湯が食べたいな」

息子が病気をして食欲が落ちた時に今では私が片栗湯をつくっています。
まだまだ母の味には遠いものの息子は「おいしいよ」と言ってくれます。その笑顔を見る度に幸せな気持ちに包まれて、胸を熱くしながら、こう思います。
「母さんもこんな気持ちだったのかなぁ・・・。」

ベネッセ 「みんなおおきくなあれ」 より


   
 
親の存在 ・  ・

 これは地方から東京の大学に入ったある学生の話である。冬休みで帰省する時、ゼミの教授から「君は幸せだな。親から金を送ってもらってのうのうと勉強が出来て。友達のなかにはアルバイトばかりやって、学校に来たくても来られないのがたくさんいるじゃないか。家に帰ったらお父さんお母さんに『ありがとう』を言って来い」と云われた。「ハイ、そうします」と言って帰った。
 ところが、家に帰ってお父さんの顔を見ると、改まって「お父さんありがとう」なんてとても照れくさくって口にできない。今日言おうか、明日言おうかと思っているうちに、どんどん日が過ぎてしまった。明日は東京に戻らなくてはいけない。なんとかして言おうと思ったがなかなか言葉が出て来ない。よし、しょうがないから態度で示してやろうと思った。そこで、お父さん(農業従事者)が夕方クワをかついで野良から帰ってきた時、縁側にたらいを置き、ぬるま湯を張って待っていた。「おやじ、ぬるま湯張っといたから、これで足洗うといいよ」と言ってあげると、お父さんはびっくりした顔をして「珍しいことあるもんだな。どうしたんだ今日は。赤い雪でも降るんじゃねえか」と言いながらもたらいの中に足を入れた。「おやじ、俺、足洗ってやるよ」と言うとお父さんが「いいや、足ぐらいまだ一人で洗えらあ」と言う。「いいから、洗ってあげるって」 何度も遠慮するお父さんの足を無理につかんで、かがんで洗ってあげた。そして一所懸命洗ってあげても、畑の黒い土が足の筋の間にしみこんでいて、いくら洗っても落ちない。「おやじ、手を出してみろ、手も洗ってやるから」と言って、お父さんの指を洗う。ゴツゴツに筋くれ立ってヒビが切れ、ところどころに血がにじんでいる。そのお父さんの指に比べて自分の指はなんとすんなりしてきれいなんだろう。おやじはこんなに血まで流して働いて金を送ってくれたんだなあと思ったら、初めてそこで「ありがたいなあ」と素直な気持ちがわいてきた。
 そうやって一所懸命、心を込めて洗っていると、首筋にポタリと何か温かいものが落ちてきた。なんだろう?と思って顔を上げると、お父さんがボロボロ、ボロボロ涙を流している。 「ありがとうよ。お前から足なんか洗ってもらえると思わなかった。いい子に育ってくれたなあ。ありがとうよ。」
 お父さんが涙をこぼしながらそう言ってくれた時、その子も素直に、「お父さん、俺こそ本当にありがとう。俺ね、親が子供を育てるのは当たり前だと思っていたよ。学校出してくれるんだって、金送ってくれるんだって当たり前だと思っていたよ。それどころじゃないや。友達の中にはね、親からいい車買ってもらって乗り回しているやつもいるのに、俺のおやじはなんて稼ぎがないだろうって、恨みに思ったことさえあったよ。でも今、こうやってお父さんの手足を洗わせてもらっているうちに、そんな考えがとんでもない間違いだという事に、初めて気付かせてもらえたよ。お父さん、今までずいぶんつらかっただろう。今まで本当にありがとう。これからはお父さんの事、大事にするからね。」親孝行のかたちを改めて考えさせられました。

   
 
「 言  い  わ  け 」
  
 “言いわけ”はしてはいけないー
大人になるまでに、人は幾度となくそう教えられてきた。遅刻をした時は、いろいろ理由をつけることより、謝ってしまった方が早いこと。成績が下がった時は、何かのせいにするより、次は頑張ると言ってしまった方が早いこと・・・・・・・。

 しかし社会人になって、人はなおさらいろんな場面で言いわけがしたくなる。たとえばたびたび注意を受けているのに、電話をかけてきた相手の名前を聞き漏らした時、社会人の自覚があればこそ、「先方が早口な上に、周りがザワザワしていて・・・・・・」と言いたくなる。たぶん、仕事に対するプライド生まれるほどに、ミスに対する言いわけをしたくなるのが、すなわち社会人のなのかもしれない。

 でも逆に、この世でいちばん言いわけが利かないのも仕事。子供の頃に“言わけの罪い”を必ず教わるのも、将来、言いわけしない社会人になるためだったのかと思うほど。 「だったら、言いわけが利くような仕事の仕方をすればいいじゃない?」と言った人がいた。どういうことかと言えば、めったに遅刻をしない人が珍しく遅刻をしたら、「何かあったの?」と、周囲がわざわざ“ワケ”を聞いてくれる。めったにミスをしない人がまれにミスをしたら、「今日は体調でも悪いんじゃない?」と上司が“ワケ”をさがしてくれる。つまり日頃から、言いわけをみじんも疑われない仕事をしていればいいのである。二度同じ間違いをおかしたら、もう言いわけは通用しない。でも三カ月間、めだったミスをしなければ、四カ月目の単純ミスは「疲れていたの」という言いわけが通ってしまう。それが仕事と言いわけの、正しい関係なのである。


美容ジャーナリスト 齋 藤  薫
   
 
村上龍さんの13歳のハローワーク
好きが入り口 情熱の職業図鑑

 好奇心を仕事の入り口ととらえた現代職業図鑑《13歳のハローワーク》が人気を集めている。「花や植物が好き」「おしゃれが好き」などの分類で、500を超す職業を紹介している。型に、はまる為の就職ガイドではなく、さまざまな可能性を感じる世界の見取り図としても読める。
 アニマルセラピスト、ネイルアーティスト、クワガタ養殖、トラベルライター、ホスト・・・・・。多彩な仕事からは、世界の広がりが感じられる。
 村上氏は「これだけ多様な仕事があるという情報をまず子供たちに知って欲しかった。これからは“好き”という情熱を仕事の原動力にする時代です。」と話す。バブル期をとらえ直した日本型の就職・就社制度がほころびて来ているその中でまず、興味を持ち、自分の責任で決めることが大切であると説く。
 労働経済学の玄田有史東京大助教授は「できれば13歳でこの本を読んで、何でもいいからやってみたい仕事を見つけて欲しい。その上で14歳になったら一週間その仕事を子供たちが出来るように学校や地域や家族が努力して欲しい。目標の喪失と人生の退屈を覚え始める中学生にこそ、働く大人に出会えるチャンスが必要だと思う」と話す。
 子供たちに接することの多い東京都小学校PTA協議顧問の小山洋子氏はこの図鑑を「子供たちが閉塞感を超えていく材料の一つになる。子供たちは狭い経験の中だけで動いていることが多い。それを超えた多様な世界を感じるきっかけになる。」と評価している。
 村上氏自身は作家という職業を選んだ。「楽ではないがやめようとは思わないしそれを奪われるのは困るというのが、その人に向いた仕事。できるだけ多くの子供たちが自分に向いた仕事、自分にぴったりの仕事を見つけて欲しい。」


加藤 修
   
 
オレオレ詐欺  被害者にならぬ自衛策を!


 つかの間の幸福に大枚をはたいた。そんな思いを抱いた高齢者がいるかもしれない。
全国で被害が相次ぐ「オレオレ詐欺」のことだ。在宅介護の取材を通じて、こう実感している主な手口は、子や孫を装い「オレだけど、今、交通事故を起こした。○○円で示談できる。相手の口座に振り込んで」という交通事故の示談金名義が、トップで約7割。次いで、借金返済、妊娠中絶費用と続いている。

 在宅介護の取材のため、都内で一人暮らしの八十八歳の男性宅を訪ねた時のことだ。集金に来た植木屋に「分からないから、ここから抜いて」と、初対面の、我々の目の前で、タンスの奥から札束を出して来た。その不用心さに驚いた。辞去しょうとしたら、食事を何度も勧められて戸惑った。

 金銭的には困っていないところを見せて私たちの気を引きたかったかもしれない。経済的にゆとりがあるかもしれないが、寂しい毎日を送っているなと感じた。
 「オレオレ詐欺」は、こうした高齢者自身も、被害者にならない自衛策が求められるだろう。自衛策として重要なのは次のような点だ。

▽ まず相手に名乗らせる。(例・どちら様ですか?など)
▽ 電話を切ったら落ち着いて考える。折り返し本人に事実かどうかを確認する。
▽ 高齢だからと受け身にはならず、能動的な気構えを持つ。

取材の中に、閉じこもりがちだった八十代の女性が地域の食事会で初めて料理を作り、周囲喜ばれたのをきっかけに外に出るようになったことがある。趣味の仲間との集いや地域社会への参加など、探せばきっかけはある。

 それにしても、被害に遭った高齢者は「オレオレ」という電話がかかって来た時に、「困った時だけ、電話で頼み事をするのは、何事か」と、一喝できなかったのだろうか。心を打ち明けられない子や孫に金銭を与えるより、自分自身のために使った方がはるかにまだ。「オレオレ詐欺」が横行する昨今、高齢者にもそんなパワーが求められている。


介護ライター     小山 朝子


   
 
マンションの一室丸ごと   リフォーム
  
老朽化したマンションの一室を丸ごとリフォームする家庭も少なくない。新たに購入するよりも安上がりだし、なんと言っても近隣との交流もあって慣れ親しん
だ場所から離れ難いからだ。

東京都八王子市のMさんもそんな思いから、子供の独立を機にリフォームすることにした。Mさん宅約五六平方メートルで築二十二年。洋室2、和室、ダイニングキッチンの間取りから、ダイニングキッチンと隣合う洋室をダイニングと一体化して広いリビングダイニングキッチンにし、和室を洋室に変える。収納を増やしたりトイレを広くするほか、「風を適量通すためドアは引き戸に」することなどを希望した。施工期間は約三十日、総工事費は一千万円弱で、今年2月に完成した。施工期間中の仮住まいは日割り計算のマンションで、一カ月半で約二十五万円だった。床暖房や浴室暖房乾燥機も付けた。配管部分もすべて取り換え、ダイニングキッチンと水回りの仕切り壁を約一五センチ玄関側にずらしてリビングダイニングを広くした。断熱パネルも多用し施工時の騒音や振動の抑制効果もあるという。

 「以前は自分の部屋にいることが多かったが、今は広くて明るくなったリグリビンにいることが多いですね。また、担当の人との打ち合わせは密にした方が良い。メールなどで連絡し合い、書面で残すような形にした方がいいですね」と施主としての心掛けを説く。

 マンションの一室をリフォームする際の注意点として、「分譲マンションの専有部分は空間の権利です。壁紙までは区分所有者の所有ですが、壁は共有部分なので、壁に穴をあけたり形状を変更する行為は管理組合の決議が必要となります。また、フローリング工事は階下に騒音被害を及ぼす恐れがあるので、マンションによっては床材の等級を定めて居るところも有りますので、管理組合に相談して下さい」と吉田康弁護士はアドバイスする。


   
 
技術身につけ人生楽しく

 草笛との出会いは、私が小学校4年生の頃かと思います。昔は自給自足に近い生活でしたので、越生町の実家のお茶も自家製で、茶摘みともなれば一家総出の手作業です。

休憩の時に兄がお茶の葉を使い、何か曲を奏でたのです。すぐまねて吹いたところ偶然にも音が出て、音階までいとも簡単にできたのです。特に練習した記憶もないので、好奇心旺盛な時に体で覚えることが出来たのではないかと思います。

定年を機に、中断していた草笛を始め、4年ほど前からは「関東草笛協会」に入会して、お年寄りの施設訪問などのボランティア活動をしています。身近な葉は何でも吹くことが可能ですが、私は一年中手に入るツタが吹きやすく好きです。

また幼稚園、小、中学校へは草笛演奏だけでなく、シュの葉のバッタ、わらのツルとカメなど自然素材を使った「ものづくり体験学習」も行っています。
いつも感じることですが、昔も今も子供たちはとても器用に物を作ります。ただ、今は作る必要がなくて技術を習得する機会がないだけのこと。知識、情報ばかりでなく、技術を身につけることで、もっと人生は楽しくなるのではないでしょうか。


― 草遊び名人 五十嵐 三郎 ―
   
 
技術者魂 夜道でピカ!☆☆☆
ペタルが軽い自転車ライトを開発した   古池 祥克さん


 取引先に急ぐ夜道、脇から飛び出してきた無灯火の自転車に、思わず急ブレーキを踏んだ。「危ないっ、このやろう」。立ち去る若者の後ろ姿を見て、技術屋魂が突き動かされた。「ペタルの負担がなくなれば、皆ライトをつけるはず。これはいける」

 自転車のライトは、回転するタイヤに発電機を接触させ発電するが、タイヤを回す負担がかかる。これを減らすため、スポークに長さ1四aの磁石が発電機本体の横を通過そるたびに電磁誘導を起こし、発電するようにした。タイヤとの摩擦がないから、ペタルを踏むのも楽々だ。「発想の転換、まさにコロンブスの卵だった」と陽気に笑う。

 東京・調布市にある社員八人の電子機器会社で、開発に着手したのが三年前。試作品は三十個を越え、試乗を繰り返し性能を確かめた。「近所の人から『いつになったら完成するの。早く作ってね』とせかされちゃって」と頭をかく。失敗にもくじけず挑戦し続ける姿勢は、日本を支える草の根の経営者そのものだ。

 昨年末から都内や横浜市などの大型店で販売を始めた「マジ軽ライト」は、売れ行き好調。ライトを取り付けた「ママチャリ」を大手スーパーが発売予定のほか、欧米からも引き合いがある。

 「零細企業には厳しい時代。でも、モノを作る限り、道は開ける。」休日は秋葉原に足を運び、次なるアイデアを探している。





   
 
時間管理
  
 忙しがっている人をよく見かけるが本当は時間がないのではなく、要領が悪い事の方が殆んどである。仕事の出来る人、多くの仕事をこなしている人は忙しがったりはしない。忙しがるのには二つのタイプがある。

一つは人に自慢したい人である。忙しくないと自分の値打ちが下がると思い、忙しがってみせるタイプ。

もう一つは時間管理が下手で本当に時間がない人である。
時間の有効な使い方が出来なく、今出来る事を延ばしてしまい、優先順位をつけられないタイプ。

 時間というのは自分で作り出すものである。準備をしていないと出来ないことがたくさんある。だが、準備さえしていれば時間は作る事が出来る。「時間がない」と言う人の特徴として時間を決めてないことも原因である。
 時間の使い方(時間管理)する事で、臨機応変に対応する事が出来る。


   
 
自家発電10年で1300基目標

 食品リサイクル法が施工され、売り残りの総菜や残飯を生ゴミとして出しているスーパーやホテルなどの業者は二00六年度までに生ゴミの排出量を二割減らすか、資源として再利用することが義務づけられた。残飯などには、しょうゆや塩が含まれていて、肥料にするには問題もある。そこで、スーパーの子会社で環境対策を担当していた経験を生かし、生ゴミを処理してバイオマス発電をする仕組みを考案した。

まず、スーパーやホテルにあらかじめは破砕機を設置して、生ゴミを砕いてマヨネーズ状にしてたくわえておく。いっぱいになってくると破砕機につけた無線通信で自動的に知らせが入るので、タンクローリーで回収して発電所に集め、取り出したメタンガスを燃料にして、マイクロガスタービンで発電する。

破砕機は完全密封状態で保管するので、匂いも無い。発電プラントは九月から稼動しており、現在は一日四・五dの生ゴミから、一般家庭三十世帯分の電力量に相当する三十`h時を発電している。電力自由化に伴い、電力会社への売電も進めている。国は競争を促進するために、さらなる電力自由化の進展を図るべきだ。

 一般家庭についても、ゴミ出しの手間を省き、非常用電源も確保できるように、高層マンションの地下に破砕機と一体となった発電設備を設け、各戸の台所から直接生ゴミを集めて発電することを考えている。

 日本で一年に出る生ゴミは二千万dにものぼる。今後十年で二百`・h級の自家発電所を全国に千三百以上作りたい。
   
 
異色の経営コンサルタント船井幸雄氏から教えられた
人生愉しくなる3つの条件

1.
勉強好き 勉強好きというのは、知らない事を知るのが好きということで知れば知るほど器量大きくなる。好奇心をもって臨めば良いわけで、別にジャンルの指定はないからこれなら誰にでもできるのではないか?     

2.
素直 これは自分の知らない事、分からない事を否定しないこと。否定というのは、器量を縮める最大の要因ですから、よほど確信がない限り否定の言葉は使わないこと。 人との対立や不快感は、双方の素直さの欠如からくることが多い。本音を言えば相手にもそう振舞ってもらいたいが、まづはこちらから始めるしかない。仕事の出来る人間は人柄が良い素直さである。素直な人間は心の窓に余計なものがないから物事が良く見える。
このことが仕事をスムーズにさせている最大の要因のように思える。

3.
プラス発想 良いことを思えば良くなり、悪いことを思えば悪くなる。それゆえ常に良いこと、良くなることを思う。プラス発想と言うのは人生を快適に送る秘訣と言える。「自分はだめな人間だ」と思う代わりに「自分を有用な人間だ」失敗したら「いい経験をした」と思い、失恋したら「真の恋人に巡り逢う機会が訪れた」と思うのである。
 偉業を成し遂げた人達の経験談からするとこちらがゾッとするほどの試練の連続である。彼らが常人と違うところは信じられない位プラス発想していることである。
 ロックフェラーの言葉に「災難が起きるたびに、結果的にそれがよかったと言えるように努力した」とあるが、成功者に必要な資質、才能があるとしたら、一番目にくるのは、まちがいなくプラス発想にある。





   
 
いま現在に投球して見よ
  
 犬や猫には過去も未来もない。だから後悔もしないかわりに夢も希望もない。あるのは現在だけである。人間には過去、現在、未来と三つの時間がある。そのお陰で時に後悔することになるが、夢や希望をもって生きられる。

 現在は過去の成績表のようなものだ。過去にどう生きたかの結果が現在なのだ。今、不本意な状況にあるとしたら過去にそうなるような生き方をしたからである。もし現在が満足できるものなら、過去にそうなるべく努力したからだ。
現在は過去によって支えられている。そして現在の生き方が未来を決定する。現在は過去の結果だが、未来は現在の結果となるのだ。ここからどう生きればよいかがわかる。今という時間に全力投球するのがベストなのである。

現在の自分がどう考え、どう生きるかが未来の姿なのである。ところが過去の結果である現在の自分にとらわれて、後悔したりあるいは弱気になったり、そんな人が多すぎる気がする。

過去は食ってしまった飯のようなものだ。いまさらどうなるものでもない。きれいさっぱり忘れて、今現在を充実させてみてはどうだろうか。中国の諺は「積善の家に余慶あり」と教える。今よい事を積みかねておけば、必ずよいことがめぐってくるというのだ。またこういう。よいことを思えばよいことが起きる。悪いことを思えば悪いことが起きる」。これは想念の大切さを言っているのだが、その想念も現在の自分が心に思い描く物であるから、結局われわれは現在で勝負するしか方法はないのである。 何かをする時に条件をつける人がいる。「ヒマになったら」   「お金ができたら」   「認めてくれたら」   「その気になったら」 やれば直ぐにでも出来る事を、一向に始めようとしない。人生の勝負は現在を舞台にしか出来ないのに、すべてを先送りするのである。これは最悪の人生態度だ。現在と言う時間を無為にやり過ごしてしまうだけである。何事かを成し遂げた人に共通しているのは何か。それは結果を問わず現在に全力投球したことなのだ。


   
 
添える

 職場で同僚に借りたものを返す時、あるいは一人先に帰る時、「ありがとう、助かったよ」とか「お先に」とか、なんらか一言を添えているかどうか。
 私たちが何気なく口にする言葉は、結構強い力をもっており、さりげない一言が相手を傷つけ不快にもすれば、喜ばせ励ましもする。そんな体験は誰もが持っていて、だから自分もできるだけ注意して、いい言葉のかけて手になろうと願ってはいても、ふと気がつくと、いつの間にか仏頂面に無言の行。果ては人に嫌味を言うことに快感を覚えていたりする。
競争に負けてはいけない、仕事の期限が迫っている、リストラがあるかもしれない等々、ストレスの種には事欠かない状況が続く毎日である。嫌味の一つや二つぐらい、言いたくなって当たり前とも言えようが、しかしそんな中だからこそよけい、よき一言のかけあいが、輝きを増すのではなかろうか。
人の心と心を暖かく通い合わせる、さりげない一言の源泉は、やはりみずからの豊かな人間味であり、他に対する思いやりであろう。そんな心を、厳しさや困難にめぐることなく、日々養いたい。磨き高めたい。
   
「骨なし魚」が人気

があるから と敬遠していた高齢者のために、病院や老人ホーム向けに 作られ、学校給食、外食産業「骨のない魚なんて」という声もあるものの、スーパーなどの店頭にも徐々に並び始めている。

魚を三枚におろし、手作業で骨を抜いて「骨なし」にする。魚の種類によっては、無味無臭の酵素を使って身を付け合せ、「丸ごと一匹」の状態に戻す。また、一部の商品は皮や血合いも取り除くなど、徹底して“食べやすさを”追及する。

実際の加工は、タイ、ベトナム、中国など海外の工場で行っており、煮魚や焼き魚など調理済み商品も販売。鮮度を保ちながら骨を抜くという「技術力」も各社で競い合っているそうだ。 江戸川区にある特別養護老人ホーム泰山の中川千弥施設長は、「骨がないので高齢者にも安心して食べてもらえる」と話す。

骨なし魚が広まった要因として、食べやすいだけでなく、「ゴミが出ない」ということも大きい。 千葉市内の公立小学校で給食に利用しているという栄養士は「子どもたちは魚の骨を嫌がる。骨なしの魚を使うときれいに食べてくれます」と歓迎する。家庭向けにも徐々に普及が始まっている。

こうした骨なしの普及に、「骨付きの魚を食べることで、箸遣いや食事のマナーが身につく」「日本の食文化を壊すことにつながるのでは」という非難の声もある。しかし、業界では「魚離れが進む中、骨なし魚がきっかけで魚を食べる人が増えてくれれば」と期待する。

・・・・ 心のティータイム 「戦略発想」の巻 ・・・



   
 
「いい加減」こそ愉しく生きるコツ
  
 ガンになりやすい人は真面目な人である。特に他人に気を使う タイプ、周囲から「いい人」とホメそやされるような人間ほどガンで倒れる。 逸見政孝さんなどはその典型といえるかもしれない。なぜいい人がガンになるのか。ストレスが発散できないからなのだそうだ。ラベリング効果というのがある。「あの人はああいう人だ」と人がレッテルを貼ると、当人は無意識にそのレッテルに沿った行動をするようになる。
  
 いい人のレッテルを貼られたら、その人はいい人を演じ続けなければならない。そんな気がしてくるのだ。もちろん、その人がいい人柄だから、そういうレッテルを貼られるのだが、人間そういつもいつもいい人ばかりではいられない。ときには「ばかやろう、ふざけんじゃない!」と怒鳴りたいときもあるだろう。
   
 ふつうの人はこの程度の落差を表に出すが、いい人の中にはじっと我慢してしまう人もいる。そうするとストレスが蓄積する。ストレスが蓄積すると、体内では身体に悪いホルモンが分泌するらしい。最近そういうことがわかってきた。また、活性酸素という、遺伝子を傷つけて発ガンを促す毒物が生成される。そのためにガンになりやすいのだ。
 ここから人生楽しく生きる一つのコツがわかる。あんまりいい人になってはいけないということだ。といってわるいひとになるわけにもいかない。私は第三の選択肢として「いい加減」というのを目指すべきだと思う。
  
 いい加減というのは、ホメ言葉ではないが、風呂に入って「湯加減はどうですか」「ちょうどいい加減です」という用例もあるように、必ずしも悪い意味ばかりではない。人から「あいつはいい加減な奴だ」と言われるような人間に限って、つきあっていて愉しいのは、いい加減ということに、人も楽にさせる何かがあるからだ。
  
 相手があまりにきちんとしているとこっちも構える。お互い構えてばかりいると、疲れてくる。どこからみてもいい人だが、あまりつきあいたくない人というのは、いい加減さがない人である。
 「彼らは嘘をつきっぱなしについた。彼らは吉凶につけて花を飾った。彼らはよく小鳥を飼った。彼らは約束の時間にしばしば遅れた。そして彼らはよく笑った」(三島由紀夫著 「美しい星」より)。われらが地球人の特性をうまくいい当てている。いい加減さが あるから人間は愛らしいのである。いい加減さがないと、人生を愉しむ 機会は、永遠にやってこないかもしれない。


   
おやじのせなか  高畑 勲
  
 父は80歳まで私立高校の校長をして、84年に96歳で亡くなりました。校長室には特別ないすを用意したら、という周囲の提案に「その必要はない。ありのままを見せなきゃ意味がないじゃないか」と言ったそうです。教え子たちから、「登校時に「○○君!」と声をかけられ、うれしかった」と聞きました。父なりに努力したんでしょう。僕なんかスタッフの名前も覚えられないのに。教え子や家族に愛され、幸せな人生だったと思います。僕は7人兄弟の末っ子です。

 岡山の空襲で11歳の姉と9歳の僕が家族とはぐれて逃げまどった時、父は、いち早く学校に駆けつけていました。家が焼けたことも後で知ったわけです。説教されたことや、ぶたれたことは一度もありません。戦後の食糧難の時代、父の知人が「食べて」とくれた鶏を、僕が飼い始めても「どうするつもりだ」とも言わない。おかげで鶏は天寿し畑の土に返りました。テストの点数がひどかったことを報告しても、畑仕事を手を休めず、「ふむ、そうか」とだけ。大学卒業を前に進路に迷い「留年させてくれ」と手紙を書いた時も、返事は「兄に相談せよ」なんです。そのくせ、外にはよく発言していました。教育問題などで朝日新聞の「声」欄の常連でしたよ。
   
 教師として他人の子には適切に対処できても、自分の子には感情が先立ってうまくいかないことを自覚していたんじゃないでしょうか。おかげで僕は自由に振舞えたし、見守ってくれているという安心感もあった。晩年は上京のたびに、独り立ちした子供達の家を3軒、4軒と1泊ずつ泊まり歩いていました。うれしそうでね、こっちもそれがうれしかった。「自然体」「飄々」と評されていました。僕もそうありたいですね。
    
   
 
人生は終生勉強である
     
 「大器晩成の人」とは松下幸之助のことを言っているのかもしれません。尋常小学校を四年で中退し、自分には知識が乏しいと自覚していた松下にとって、あらゆる人、あらゆるものが自分のいわば師匠でした。
   
 PHP研究所の新入所員にも、このような問いかけをしています。「君は大学で何を勉強してきたんや」「はい、心理学を勉強してきました」「そうか、心理学かね。君、心理学とはいったいどのような学問か、わしに教えてくれや」「心理学とは、幅広い学問でして・・・」「ちょっと待ってくれ。君、知っているかどうか知らんが、わしは満足に小学校も出てない男や。難しいこと言われても分からん。
     
 君、一言で心理学を説明するとどういうことや。」問われた新入所員は、一言で言うことの難しさを思い知らされたと言っていますが、松下は自分の分からないことはどんなことでも、誰に対しても尋ねていました。それは、知らないことを聴くことは決して恥ずかしいことではない、という信念があったからでしょう。九十歳の正月、仕事の報告に来たPHP研究所の幹部にこのようなことを話しています。「PHPもみんなの努力でだんだんと名が知れてきたな。けど今年は更に奮起せんとあかんで。いまな、PHP大学つくったらどうかと思っとるんや。
  
 そうや、普通の大学や。文学部とは、経済学部とか法学部とかあるやろ。いや、わしは理事長にも学長にもなれへんのや。わしはな、その大学の入学生の第一号になるんや。九十歳を一から始めるにはそれがええやろ。いままで九十年間生きてきてきたけど、まだまだ勉強せんならんことがいっぱいあるわけやな。それで勉強しようと思うんや」このことは実現しませんでしたが、松下は九十歳にしてまだ知的好奇心を持ち続け、何事からも学ぼうとしていたのです。「大器晩成の人」こそ「生涯青春の人」なのかもしれません。




   
 
悪性リンパ腫により死を宣告された高校三年生の残した言葉。
    
 「死にたくない、生きていたい、でも生きられないこれほどつらいことってあるだろうか。俺は良い子で死んでいかない。鈴本家の家族には言いたいこと、わがままを言わせて欲しい。俺がときどき分からぬことを言うのも、また家族にあたりちらすのも生への闘いなのだ。生きたいからがんばっているのだ。怒る気持ちも消えて、何もいえなくなってしまったときは、病気との闘争心をなくしてしまったときなのだ。これから先はますます苦しくなるだろうが、俺は最期まで闘う。そして俺のために、家族のために少しでも長く生きたい。」
   
 彼の残していった言葉からは、死を目の前にした息遣いが聞こえてくるようだった。最後となった外泊のとき、彼は墓地を見に行っている。
「母さん安心したよ。おれの行くところが見えてきた!八ヶ岳が見えて、 霧が峰、蓼科山に見守られて景色のものすごくいところだね。おまけに俺の部屋の障子まで見えた。いいところだったよ。」
   
 それから少したって、彼に呼吸困難が起きた。これ以上、生きて欲しいと願うほうが、どれだけ残酷なことか分かっていた家族は彼にこれ以上「がんばれ」と言う言葉をかけなかった。「がんばらない、がんばらない、これまでよくがんばってきた。もうがんばらなくて良いよ、君は君のままで良いんだよ」・・・と。
  
 父親の「言い残すことはないか?」という問いに、彼は「今日一日をどうやって生きようかと、それだけで精一杯だ。今更何を・・・現実を知ってがんばってきたのだから、悔いはないが遣り残したことはいっぱいあるさ。海外旅行もしたかったし、結婚して俺の子供もほしかった・・もっと生きたい・・
  
 言ってもきりのないことだ。これが俺の運命だったんだ。全精力を病気との戦いにかけたので思い残すことはない。」と、答えた。無念だったと思う。彼の葬儀でぼくは心の中でつぶやいた。
  
命は長さでなく、輝きなのだ。
   
 一陣の風のように、彼はたくさんの人に勇気と、明るさと、人間の素晴らしさを教えて、風のように光を去っていった。そして、彼がこの世を去るとき最後に吐き出した息を僕らは受け取り、呼吸している。



   
   
 
 
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